似九郎「読書」日記

オルが「似九郎」ですタイ。「にたくろ」と読みますバイ。熊本弁で「バカタレ」ち言ったとこ ろデッショか。以下は、その似九郎が徒然なるままに読んだ本の感想バ書いたモンです。一読してもろたらうれしかです。



2012年3月22日(木)曇
 *これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史(2002年高文研)*

 中塚明著。いま、なぜ60万人もの「在日韓国・朝鮮人」がいるのか。韓国・朝鮮との関係を抜きには語れない日本の近現代史。

 私はこの本で、日本の過去を告発しようとしたのではありません。21世紀を、日本人が、とりわけ若い人たちが、韓国・朝鮮をはじめとするアジアの 人たちとはもちろんのこと、世界の人たちと、たがいに理解し、相手を認め合いながら、協調して平和に生きていくことを願って書きました。相手を 理解し、認め合い、協調して平和に生きていこうとするとき、過去のことをなにも知らないのでは、その目的を達することはできません。(中略)「歴 史を知ることは絶対必要」、この言葉を大切にしたいものです。(あとがきより)


2012年2月1日(水)曇 *財田川暗黒裁判(昭和50年立花書房)*
 矢野伊吉著。谷口死刑囚の無実を確信した再審請求元担当判事が、その職をなげうち、一転、弁護士として同死刑囚の救援に専念する執念の書。発行 当時、裁判所等法務関係者から、自らが弁護する再審請求裁判を有利に運ぶために本を刊行したのではないのかと非難されたいわくつきの書である。

 事件は、昭和25年2月27日深夜、香川県三豊郡財田(さいた)村で起きた。闇米ブローカーや闘鶏賭博と言われていた一人暮らしの老人(当時63歳)が 殺害されるという強盗殺人事件だった。その1ヶ月後、近くで強盗傷人事件が発生、同村の不良として嫌われていた谷口(当時19歳)らが犯人として逮捕さ れ、懲役刑が確定される。その強盗傷人事件から4ヵ月後、拷問を含めた執拗な取調べにより、谷口は財田川事件を自白。昭和32年1月、死刑が確定した。
 しかし同人は一審公判から「無罪」を叫び続け、再審の請求を繰り返した。それは裁判所へのつたない手紙による正式な文書ではなかったが、ある時、 当時再審請求担当判事だった矢野伊吉氏が、隅に埋もれていた谷口の同手紙を発見。矢野判事は裁判記録を精読するにしたがって次第に谷口の無罪を確信 するに至る。矢野判事は自らが勤務する裁判所等から様々な圧力をかけられるが、30余年にわたる判事の職を辞し、弁護人として谷口の救出に専念する。

 「財田川暗黒裁判」の著者矢野伊吉氏は本書の「むすび」で次のように訴える。
 「谷口の無罪を証明することは、警察官を、検事を、先輩裁判官の落ち度を暴くことになる。だが、不正義に気づいてしまったなら、気づいた人間が 何かをしなければならないと思った。(中略)検察庁、法務省が反対し、圧力をかけてくるのは見えすいていた。(中略)日時が経過したので真相究明 不能というが如きは、悪逆者を弁護するための台詞でしかない。(中略)報酬は誰からも、またどこからも一銭たりとも受けてはいない。それにもかか わらず、高松弁護士会は私を懲戒処分に付した。(中略)背後の或る大きな力に、私はこれまで恐れをなしじっと我慢をしてきた。私はここに意を決して、 (中略)或る力の排除を提案する。本書を発行することにより、私は本件を国民各位に訴え、隠密裏にではなく、白昼堂々と討議されるきっかけになること を信じて疑わない。しかし、病気既に重く、何時まで戦えるかわからない。(中略)真実は必ず勝つ。暴力と欺瞞を追放して、正しい主張や真実が通る 世の中にしなければならない。」
 この本の発行から9年後の昭和59年3月、谷口死刑囚の無罪が確定。しかし、著者である矢野弁護人は同無罪判決を聞くことなく、無罪が確定される ちょうど1年前の昭和58年3月、71歳で他界した。谷口元死刑囚は2005年7月、病死(享年74歳)した。


2012年1月27日(金)曇時々雪  *ドキュメント人間(1993年ちくま文庫)*
 鎌田慧著。大卒の資格を捨て、ゴミ車に乗って十年の金高毅。ひとり芝居を通してむつ母港に反対する松橋勇蔵。夜間中学で学ぶことの素晴らしさを 知る人々。判事の職を捨て、財田川事件のみの弁護士となった矢野伊吉。四度の追放を受け、反骨の生涯をつらぬいた鈴木東民、等等。

 「故郷の言葉で故郷の歴史を語りながら、故郷の未来をつくりだすために舞台にあがっている役者はめずらしい。」「二時間以上、ひとりで語りつづ けるのは、母親の生涯であり、青森県下北半島の歴史である。」(「下北のひとり芝居」より)。
 「個人が振りかざす正義など、国家の前では『蟷螂の斧』の如きものでしかなかったのかもしれない」「無実はすでに争うまでもない自明の理になっ ていても、国の権力は、秩序を維持するためにだけで抵抗する。個人の人権などは弊履(破れた履物)のごとく捨ててかえりみられないのである」 (「ひとりからの正義」より)。なお、蟷螂(とうろう)とはカマキリのこと。その「蟷螂の斧」とは、自分の非力を考えないで弱者が強者に立ち向かう ことのたとえ。
 企業城下町と言われた岩手県釜石市の城主「新日本製鉄」と闘ってきた市長・鈴木東民。そのときの有名なエピソードが、秩父宮夫妻が釜石製鉄所を 視察したときの話。秩父宮が職工長屋を眼にして、案内の所長にたずねた。「あの小屋には何が入ってあるのか」「ハイ、おそれながら鶏でございます」。 1937年に実際あった話である。働く者が生活する職工長屋を「鶏小屋」と平然と言い放つ会社側も許せないが、「あの小屋には何が入ってあるのか」と聞く 方もまた救いようがない。浮世離れしているとしか言いようがない。「釜石名物は火事と赤痢」と言わしめる当時の企業城下町だった。その鈴木東民も やがて、企業と労働組合が労使一体となって立候補させた釜石製鉄労組元委員長に選挙で敗れることになる。


2012年1月17日(火)晴  *六ヶ所村の記録(2011年岩波現代文庫)*
 鎌田慧著。上・下巻。「核燃料サイクル基地の素顔」。1991年岩波書店より刊行された作品のリニューアル版。

 「すべての危険性を六ヶ所村に押しつけて解決したと思っている無関心は、将来、事故発生によって報復される危険性がたかい」。同書あとがきの 中の一文である。このルポが刊行されたのが1991年。2011年の福島原発事故から20年前のこと。それがはからずも的中した形になってしまった。
 「石油コンビナートをつくります、30万都市をつくります、というのが農民から土地を買収したときの触れこみだった。農民たちは工場に優先的に 採用するという約束を生活設計に織りこんで、土地を手放した。それが突然、もっとも危険な核のゴミ捨て場と処理場に変えられたのである」。
 いつの時代も、「国策的開発」の名の下、寒村地は常に狙われている。それは農業に展望を与えない国の政策であるかのようである。
 「海域調査は、(中略)大型巡視艇や高速艇など40数隻の艦艇とヘリコプター2機、600人強の機動隊など、陸海空を制圧した警備だった。チェルノ ブイリ原発事故のあとも、日本政府と電力各社は、原発建設のスピードを落としていない。残念ながら、下北半島は東京から遠いこともあってか、こ こでのできごとはほとんど全国的なニュースとして伝えられていない。(中略)政府と電力会社とを背景にした議会制民主主義の否定、地方自治の破壊、 過剰警備と大量逮捕(反対派の)、白昼公然の暴力、漁協の私物化、組合長の解職、知事権力の干渉、公文書の偽造(建設賛成署名簿等)など、ありと あらゆる汚いやり方が核基地の危険性をなによりも雄弁に物語っている。尋常な方法では、どこにも立地できない焦りに、核大国を目指す政府と電力会社 はとらわれている。いまでさえ、こうである。もしも完成したなら、なにが起こるかわからない」。
 「弾圧」と「札束」。その官による民への攻撃は、かつて「三池」でも繰りひろげられた手口ではなかったか。
 「核の生ゴミをひとに押しつけてはいけない。原発政策とは、原爆とおなじように、ひとに害を加えて自分だけ繁栄しようという、あさはかな思想の あらわれでしかない」。「すでにつくりだされた核廃棄物をどうするのか。(中略)それは推進派ばかりか、反対派にもかかってくる課題」。
 「無関心は、共犯である」−我々に対する辛らつな警告ではなかろうか。


2012年1月3日(火)晴  *「成田」とは何か(1992年岩波新書)*
 宇沢弘文著。戦後日本の悲劇。「25年にわたる苦難の対決は何だったのか」。

 「空港用地内とされた農家の多くは、戦後の食糧難を救うために、国のすすめによってこの地に入植した開拓農民であり、国家のために食糧増産に 励んできた民であります。太平洋戦争で兵役に駆り出され(中略)言い知れぬ苦しみを味わった体験の持ち主でした。(中略)ふたたび国の要請を 受けて、御料牧場の解放地に開拓に入ったのでした。(中略)陽が昇ってから月明かりの夜まで、松林や竹林を切り倒し、少しずつ少しずつ畑を作って いったのです。そこへ、突然、空港が降ってきたのです。国のために汗を流していた農民に、『飛行場になるのだから出て行け』といってきたのです。 (中略)『三度目の赤紙だ!』(中略)開拓農民と騒音地区とされる農民は、結集して空港反対同盟を結成し、何度も(中略)話し合いを要求いたしま した。しかし、政府・運輸省が私たち農民に対してとった態度は一貫しておりました。それは「一切の話し合い拒否」「問答無用」であります。  (中略)政府が『公共事業だ国益だ』といって、国民を『犠牲ないしは私権の制限の対象』としてしか見ない態度を、根本的に改める必要があると いいたいのです。『成田空港第二期工事ができないのは、用地内八戸の農民が買収に応じないからだ』という論理。(中略)『買収に応じない』ことが あたかも国賊のような言い方。(中略)私たちの『農民としての存在』を、徹底的に蔑視する態度。(中略)工業優先、効率化への偏重という政策の なかで、あのとき、政府は日本農業の根っこを崩してしまったのではないでしょうか」(三里塚芝山連合空港反対同盟「徳政をもって一新を発せ」より)
 「一枚の田圃でもな、あそこは水が湧いていて冷たい、あそこは肥料が溜まりやすいとか、みんな顔が違うだよ。田植えのときは、冷たいところは 苗を少し多く植えるとか、考え考え植えるだよな。目をつぶっても全部の田圃の地図が頭に浮かぶだよ。それを公団は代替地がありますからって、百姓 のことを何も分かってねえだ」という農業従事者のつぶやきは、そのまま今も続く農家のため息、怒りではないのか。


2011年12月22日(木)曇  *水俣病闘争の軌跡(1996年緑風出版)*
 池見哲司著(元朝日新聞記者)。副題、「黒旗の下に」。本の赤い帯には「川本輝夫たちの闘い」と書かれてある。

 水俣駅に降り立つと、すぐ目前が新日本窒素(現・チッソ)叶俣工場正門である。チッソのために駅ができた、と言っても過言ではない(そんな 旧国鉄水俣駅も九州新幹線が開通して新水俣駅が開業すると捨てられるようにさびて行くのである)。
 ここでかつて安定賃金闘争(1962年4月―翌63年1月)が繰りひろげられた。これに三池炭鉱労働組合員もオルグとして参加した。その闘いの構図は、 2年前の三池労働争議と同じく、分裂した水俣労組(第一組合)の敗北で終わった。
 三池闘争と異なる点と言えば、1959年11月、公害に苦しむ不知火海沿岸漁民が工場に乱入したとき、「工場を暴力から守れ」と水俣労組が漁民たちを 糾弾したことと、同年12月水俣病の患者家庭互助会が工場前に座り込んだとき一旦貸したテントを「汚れる」と取りあげたということ、その二点であろう。  しかし、闘争敗北から5年後の1968年8月、組合定期大会で「恥宣言」と呼ばれる大会決議を宣言。第一組合は患者との連携を誓う。
 「闘いとは企業内だけでは成立しないこと、全国の労働者と共にあること、同時に、闘いとは自らの肩で支えるものであることを教えた。その私たちが なぜ水俣病と闘い得なかったのか。闘いとは何かを身体で知った私たちが、今まで水俣病と闘い得なかったことは、まさに人間として、労働者として恥ず かしいことであり、心から反省しなければならない。会社の労働者に対する仕打ちは、水俣病に対する仕打ちそのものであり、水俣病に対する闘いは同時 に私たちの闘いなのである」と。
 安定賃金闘争の陰で、会社側のロックアウトと労組側の無期限ストにより工場の操業が完全停止したことから、臨時工の職を失った水俣病患者もいた。
 これらの経緯を考えたとき、「組織」という殻に閉じこもるだけではない、社会にも眼を向けた、組織にも属することが出来ない労働者の存在を考える、 新しい労働運動の在り方の必要性がこれからは大事になっていくのではないのか。そんなことを、私は「水俣病闘争」に学んだような気がした。


2011年12月11日(日)晴  *南京の真実(2000年講談社文庫)*
 ジョン・ラーベ著。エルヴィン・ヴィッケルト編。平野卿子訳。

 The Diary of John Rabe. 日中戦争が深刻化し、首都南京が陥落したとき、ジョン・ラーベはドイツ・ジーメンス社南京支社の支社長だった。 ナチ党員でもあったが、彼はこのナチ党員のバッジとカギ十字のハーケンクロイツの腕章を凶暴化する日本兵の鼻先に突きつけて、ジョン・ラーベ邸 に避難してくる中国人たちを守り抜く。彼の功績はその後「中国のシンドラー」とまで呼ばれるようになった。ジョン・ラーベは1950年ベルリンにて 67歳で死去。その墓碑が南京に移され、今も大切にまつられている。
 「大人であろうと子供であろうと見境ありませんでした。下は8歳から上は70歳を越える女性が暴行され、多くはむごたらしく殺されました。局部に ビール瓶や竹が突き刺されている女性の死体もありました。これらの犠牲者を私はこの目で見たのです。婦女子の暴行は安全区にいくつもあった女子 収容所の真ん中で行なわれたのです。」「中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これらはいくらか多すぎるの ではないでしょうか。われわれ外国人はおよそ5万人から6万人とみています」。ラーベはヒトラーへの上申書でそう述べている。しかし、ラーベが信 じていたヒトラーからは何の手助けもなされなかった。逆に、ラーベはドイツ帰国後、ナチスに逮捕される。そして、南京の惨状を克明に書き残した 日記を公開しないという約束で釈放された。
 1941(昭和16)年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃から70年。「日米同盟の強化こそが平和への道だ」とサンケイ新聞が報じていた・・・。


2011年12月3日(土)曇  *水俣病闘争 わが死民(1972年現代評論社)*
 石牟礼道子編。1960年/70年代の住民運動の記録。2005年「復刻版」創土社。

 この本の感想は、ひと言で言えば、「とても息苦しくなるほどの衝撃的な水俣病闘争の記録」。
 例えば、「江頭社長との対決」(1970年11月28日チッソ株主総会録音記録)の中で、女性患者の1人が、「金で、いのちは買えないーっ。おととはかたわ、 親は両親、おととはかたわ。人はちんばとか、かたわとか笑うーっ。両親!おととはかたわ。どこで立つ瀬があるかあっ。生きる道があるかーっ。おれが こう言うのがわかるかあっ、両親におとと、おととはかたわっ。両親は死んだ。年よりはおる、いもとやおととはおる、わかるかあ、おなごで17年間はしらに なってきた。わかるかあっー!柱になってきたおれの気持がわかるかあ。おれは40歳、ヨメにも一回も行かない。それがわかるかあっ。なんてゆうたかあ、 なんてゆうたかあ、おれが家来た時はなんてゆうたかあ。三回も頭ば下げたあ、忘れたんかーっ!」と必死になって叫ぶ。
 またある男性患者は、「ああ・・・オルが・・・鬼か・・・」と泣きじゃくりながら、「オル家(げ)のオヤジはな、たったひとりで死んだぞ、たった ひとりで・・・。畳もなかところで死んだぞ・・・。食わせる米もなかったぞ。オラあ・・・オラ、オヤジにひとさじ、米ば・・・食わせてやろうごたった ぞ、のどもふさがっとったぞ・・・。精神病院の保護室で死んだぞ。誰も、見とらんところで・・・牢屋んごたるところに閉じこめられて死んだぞ・・・ あんたは、しあわせぞ、社長・・・わかるか・・・」(1971年12月21日チッソ本社社長室前にて)と、社長の上にかがみこみ、ひざまずいて顔を寄せ、 泣きじゃくりながら自分にいいきかすように言った。(まぼろしの舟のために)
 その一方で、善良なる「市民有志」の名の下、「あの患者達は自分達のことばかり言って、いっちょん反省しとらん。いくらもらえば気がすむとか。神経痛 か、小児マヒか、アル中か、ようわからんとに」などというような誹謗中傷のビラがばらまかれたりした。
 そんな中での水俣病闘争は、これまでの労働組合や政党に頼る定型の闘争ではなく、「生活民自らが方向を決定する非定型の闘争」であった、という。


2011年11月25日(金)曇  *トランクの中の日本(1995年、小学館)*
 写真、ジョー・オダネル。聞き書き、ジェニファー・オルドリッチ。米従軍カメラマンの非公式記録。

 「焼き場に立つ少年の写真」という見出しの記事(11月23日付け毎日新聞「発信箱」)を読んで、本箱にあった写真集「トランクの中の日本」を 再度見開いてみた。
 先の記事には、「原爆投下後の長崎で、米軍カメラマンのオダネル軍曹が撮った有名な写真は、人種も超えて万人の胸を打つだろう。と思ったら、 それは甘かった」とある。スイス・ジュネーブの国連欧州本部に原爆常設展示が新設されたことから、長崎市が「まず被爆の悲惨さを知ってほしい」 と背中一面焼けただれた写真など十数点を用意すると、「子供の見学者も来るので、ショッキングな内容は困る」と国連側から退けられ、それならこれ はどうかと「焼き場の少年の写真」を示すと、それもダメだと言われた。理由は、「直立不動が軍隊みたいだ」「この子は悲しいのに泣いていない じゃないか」ということ。結局採用された写真は、広島・長崎の焼け跡と、衝撃度の少ない被爆者の後ろ姿の3枚のみ。「事のてんまつに、なぜか外務省 は登場しない」と記事の最後は結ばれてあった。
 その内容に、国連と、それを構成している水爆保有国アメリカなど大国のエゴを見る。国連にとって、所詮、日本はいまだに敵国なのである。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子が くくりつけられていた。その子はまるで眠っているようだった。少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員 は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす 少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を つけの姿勢で、じっと前を見つづけた。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。(中略)。急に彼は回れ右をすると、背筋をピン と張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。(中略)。私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを 知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれ ば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。」(焼き場にて、長崎。ジョー・オダ ネル)


2011年11月23日(水)曇  *古代日本と朝鮮(1982年、中央文庫)*
 編者 司馬遼太郎(小説家・ノンフィクション作家・評論家)・上田正昭(京都大学名誉教授など)・金達寿(キム・タルス、小説家・雑誌編集者)。

 古代史は苦手も手伝って、ほとんど興味がなかったが、この本を読んでみて、目が覚めた思いだった。当たり前のことだろうが、「歴史は生きている」 ということ。そのことを感じた。以下は、そのこころに残った言葉。

 「記録というものはだいたい古い時代になればなるほど限られてくるし、その伝承も支配者によって変えられている。そういう記録の 限界をわきまえずにいると、支配者の立場からみることになりかねない。その点はややもすれば文献史家のおちいりやすい弊害」(上田)
「古墳一つ掘るにしても日本人以外は立入り禁止。朝鮮人をいっさい排除しておいて、朝鮮文化を日本人だけで勝手な議論をしていたという事実の うえにわれわれももっと反省しなければならないことがたくさんあるんじゃないか」(井上)
「歴史的な事実を通じて日本人というものを問う。朝鮮を考えることによって日本の正体を明らかにするということ。それは日本人が見失って来た もの、欠落させて来たものを明らかにするために非常に大事なことだ」(上田)
「ぼくにいわせれば、日本の古代史というのは日本と朝鮮との関係史なんです。ですから、それがフィクションにみちたあいまいなもののままになって いることは、日本人の民族的主体をあいまいなものにしているだけでなく、朝鮮人のそれをも傷つけているということがある。ぼくなどが日本のなかの 朝鮮文化ということを問題にしているのは、そういうことがあるからです」(金)
「記録や文書、あるいは遺物、遺跡は、すぎ去った過去の歴史を伝えるばかりである。それらとの対面のなかで、それぞれの歴史にたいする見方や考え方 を通路にして、”死んだ歴史”が”生きた歴史”としてよみがえってくる。(中略)。『大和』を中心として放射線上に史実を位置づけてきたこれまでの ありようを反省する。われらは”死んだ歴史”を興味本位に追究するのではない」(上田)
「日本海も朝鮮海峡も思うように往来できない現代の苦悩、その苦悩の原因であるややこしい政治の壁を無視し、挑戦しながら東アジアの古代世界へと 考えを拡げようとする小さな運動。(中略)。それはイデオロギーでも政治的意識でもなく、本当はもっと高級なことである」(金)

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