三池炭鉱中国人殉難者慰霊塔  熊本県荒尾市 小岱山(2001年3月13日撮影)


 戦時中、国内の基幹産業に送り込まれた労働者は4万人を超えたといわれる。彼らの中には、危険 な作業現場で飢え、傷つき、死んでいった人も多い。当時、内地で最大級の炭鉱だった九州・福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で は、中国人労働者が2年間で564人も死亡した。
 こうした異郷で命を落とした人々の霊を慰めようと、元炭鉱マンが執念を燃やし、念願の慰霊塔を、炭鉱を見下ろす山の上に 建立するまでにこぎつけた。

 福岡県大牟田市の隣、熊本県荒尾市で食堂を経営する深浦隆二さん(67)は、昭和9年に三井三池炭鉱万田鉱に、採炭現場や 坑道の維持をする仕繰り夫として就職、37年11月に現場係員で退職するまで、3年間の軍隊時代を除き、ずっと坑内で過ごした 炭鉱マンである。
 開戦後、国内の炭鉱は「明日の10トンより今日の1トン」を合言葉に増産を強いられ、18年には全国で年間5500万トンという 信じられない生産をした。なかでも九州は、3000万トンを越す出炭であり、その中心となったのは三井三池炭鉱だった。外地の 戦線に駆り出された労働力を埋めるため、三池炭鉱では、大牟田、荒尾両市近郊の農村の人手、学徒動員、朝鮮半島や台湾から の勤労奉仕隊、米英豪の連合軍捕虜など、あらゆる労働力が利用された。「華工」と呼ばれた中国人労働者は、昭和18年10月ま でに、主として中国・山東省で日本の軍隊によって駆り集められた約2400人が投入された。

 坑内では厳しいノルマと日本人指導員による虐待。宿舎は鉄条網で囲んだ急造のバラック。満足な食事も与えられなかった。 中国人労働者たちの状況は悲惨だったという。当時、同じ三池炭鉱の坑内で働いていた日本人鉱員の一人は、「かわいそうじゃ った。わしらですら食う気にはならなかった米ぬかだんごに、喜んで飛びついていた。食糧は麦に大豆やコーリャンを混ぜた主 食が少々。おかずはたくあんの切れっぱしばかり。日本人労働者の中にも悪いのがいて、坑内で食べたミカンの皮に小便をかけ て捨てる。すると中国人はそれを争って拾って食べていた」。深浦さんも通勤途中、中国人労働者が道に落ちている食べられそ うなものをわれ勝ちに拾って食べる光景を何度か目撃して、「あわれだなあ」と思ったという。

 深浦さんがこうした中国人労働者の慰霊に取り組むようになったきっかけは、昭和19年5月16日に三川鉱で発生した坑内火災 で、採炭現場にいた中国人労働者37人と日本人労働者11人が死亡した事故だった。火災の煙と熱、一酸化炭素は、坑道でつなが っていた隣の万田鉱第3上層第1卸左三片の中国人労働者の採炭現場に流れ込み、現場が袋小路だったこともあって、全員が約40 分後に中毒死した。
 救護隊員として現場に駆けつけた深浦さんが見たのは、5人、3人と抱き合って、みんな口から血を流して死んでいる光景だっ た。「中国人労働者はみんな、ツルハシやスコップなど自分の工具を握りしめていた。普段から、工具は命より大切だ、と教 え込まれていたからでしょう」

 日本人労働者の遺体は担架で一人ずつ運び出されたが、中国人労働者は石炭運搬車に数体ずつ投げ込まれ、坑口に運ばれてい った。深浦さんは「せめて炭車の床にアンベラでも」と思ったが、それもなかった。しかしこの時、一人の救護隊員が、遺体を 炭車に入れながら、「許してくれ、許してくれ」と口走り、片手で遺体を拝む姿を目撃した。「戦後、私が慰霊塔建立に執念を 燃やすようになったのは、この時の光景が脳裏に焼き付いて離れなかったからです」
 在職中、同僚たちに慰霊の話を持ちかけたこともある。退職後の昭和45年には、せめて慰霊祭でもと、会社側に交渉したが、 対応は冷たく、実現しなかった。中国との国交が回復して友好親善の声が高まる中で、深浦さんの胸には、「慰霊もしないで何 が親善だ」という思いがますます強まり、慰霊碑建設の運動に拍車がかかったという。
 荒尾市や近隣の町長、議員、各地の華僑連合会など、少しずつ協力者も増え、今年1月には慰霊碑建立の発起人会が発足。年 内には、荒尾市の南端にある熊本県立公園小岱山(しょうたいざん)の西峰標高501メートルの山頂一帯約30アールを公園風に しつらえ、慰霊塔と、深浦さんが3年前に田畑を売って求めた高さ2.2メートルの観音像(北村西望 作)を安置する。
  (昭和57年9月21日付け 朝日新聞(夕刊)より)

 ここ「不戦の森」の慰霊塔に眠る中国人殉難者564名の御霊は、第二次世界大戦末期、 日本軍による強制連行重労働の果てに三井三池炭鉱の現場で惨死した犠牲者であります。
 私達は日本人の良心としてこの御霊を供養することなくして、真の意味の日中友好はないと信じ、ここにその冥福 を祈っているものであります。合掌
 中国人慰霊塔を守る会

 中国人殉難者慰霊塔の裏面にはこう書き記されてある。

   悲しみは国境を越えて

 ここに眠る中国人殉難者564柱の御霊は第二次世界大戦末期三池炭鉱で強制労働に就役せしめられた犠牲者であります。 当時「兎狩り作戦」と称したこの事件はその名の如く無抵抗の住民、無力な非戦闘員をまるで兎を狩るが如く強制連行した 非人道的な事件でした。彼らは生木を裂かれる思いで肉親たちと別れて来ました。併も虐待、拷問、事故等によって現場で 惨死した564名の生きて母国へ帰還できなかった無念の思いはまさに断腸の思いであったろうと、同情の泪を禁ずることが できません。私たちは戦争の名においてこのような悲惨な事件の加害者となったことを反省せずにいられません。しかも 一度犯した過ちは取り返しがつきません。あなた方の痛恨極まりないお悲しみの声が聞こえてくるようであります。しかし 私たちはなす術を知りません。唯唯泪するばかりであります。人間の国境に悲しみはないというのに、国境が人間を悲しみ の淵に突き落とすとは、何たる不条理でありましょうか。私たちは今こそ過去の過ちを繰り返さないために、あなた方の御霊 の前に永久不戦の誓いを捧げずにいられません。
 御霊よ、もって照鑑垂れ給わんことを。 合掌。
 昭和58年12月18日

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